ヒマラヤ高峰マナスル(8163m)登山記  

          定年退職後の憧れ実現  

                                富士宮山岳会    工藤誠志  

  一昨年、定年退職したおり、退職後の憧れ実現の最大の目標として、ヒマラヤ8000m峰への登山を思い描いていた。その可能性への第一歩として、昨年エクアドルの6000m峰登山をした。そして、今年個人参加できるマナスル登山があることを知り、参加することにした。マナスルは、日本人が8000m峰で初登頂した山であり、ネパールの山々でも、アプローチが比較的短い8163mの高峰である。隊長は、プレモンスーンでwowow番組「エベレスト登れます」を実現させた国際山岳ガイドの近藤謙司氏である。  

 

  9月5日夜、羽田からバンコク経由で、カトマンズへ。現地のエイジェントと打ち合わせて、8日にヘリコプターで、歩きだし地点サマ村へのフライトが開始された。この日は、天候不順で1便しか飛べず。私はカトマンズ泊が追加と7なり、翌9日の2便目で、無事3300mのサマ村キャンプ場に着いた。この間乗ったヘリコプターは、パイロットが地図を見ながら、谷間を進む。左右の岩壁が迫り、なかなかスリリングなフライトでした。ヘリが着地した時には、本当にほっとした。  

 翌日は、裏山に高度順応のため登山。高山植物が美しく写真を撮りまくる。  

 11日は、リマゴンパで、安全祈祷のプジャをする。そして、12日朝から、隊装備を村人に担いでベースキャンプまで持ち上げてもらうキャラバンがスタート。我々隊員は、ランチを持ってのベースキャンプまでのハイキング。登るに従い氷河湖、氷河などの展望が開けてくるが、時々雨が降るモンスーン期の天候であった。無事、1時過ぎには、ベースキャンプ地に着いた。この4700mのベースには、10隊以上のパーティーが各々のテント村を作っている。日本人隊だけでも、埼玉県山岳連盟隊、ラッセン隊の日本人隊と5名もいた。  

 

  ベースでの1日目は、上部への体慣らし。2日目は、ベースでのプジャ。午後、フィックスロープへのアッセンダー(ユマール:ロープに移動、固定する登山器具)利用しての 登下降練習。15日は、キャンプ1(5300m)までの登山活動。全員体の動き悪く、キャンプ1まで行けず、ベースに帰着。翌日朝も私の血中酸素濃度が50代と悪く、サマ村に下ることにした。キッチンのアサビルが同行してくれた。サマ村では、ロッジに宿泊。しかし、血液中の酸素濃度があまり上昇せず、3泊した。この間、ヒンズーの修行僧が修行する岩場のゴンパ見学に行ったり、野口氏が呼び掛けて学校設備が充実した村外れの学校まで散歩して高所順応に努めた。  

 19日、私のバースディの日にベースキャンプに戻った。すると、私のために、コックがバースデーケーキを作ってくれ隊員が祝ってくれるハプニングがあった。翌日は、隊全体はキャンプ1泊をすでに実施したので、キャンプ1.2へと順応活動をする日、順応に遅れた私も、サマから戻った次の日に上部キャンプへと出発した。キャンプ1まで移動したが、私と69歳のI氏は遅くなり、翌日、ベースへ下山の指示が出た。本隊はキャンプ2に宿泊して、ベースに下りてきた。その後、2日間大雪が降り、他の登山隊も動けず、ベースに戻り登頂体制を再建する必要に追い込まれた。  

 

  この大雪で、我々の隊のキャンプ1と2のテントポールが折れ登頂体制を再検討し、10月1日、女子出発、2日男子出発がラストチャンスの登頂体制となった。これにより長いベースキャンプでの生活となった。そのおかげで、私の血液中酸素濃度は、起きたばかりで、平地に近い89までに改善していた。  

 10月1日、先行する女子を最初の岩場まで見送る。2日いよいよ男子隊も快晴の下出発。順調にキャンプ1、そして、クレパスの多い氷河帯を登りキャンプ2(6300m)へと一日ごとに高みへと進む。次のキャンプ3(6800m)へ。この高さはまだ経験したことのない世界。ただ、長い雪面をコツコツと登り続ける。自分でも驚くほど体がよく動き、キャンプ3に2時過ぎには到着できた。キャンプ3からは、夜寝るときから酸素を 使う。酸素マスクすると安心感が出る。体を動かさなければ酸素マスクしなくても普通の呼吸でいられる。しかし、少しでも動くと、酸素マスクを口にし、深呼吸して落ち着く状態であった。  

 

  5日、酸素マスクしてキャンプ4(7450m)に向かう。特別意識しないで、足は堅実に動き、2時前には、キャンプ4に着いた。ここで、女子は3名が登頂し、調子が悪くこのキャンプ4に待機していたMさんもいた。その内、最高齢72歳で登頂したFさんが上の雪面から下りてきた。登頂祝いの声をかける。やがて、このFさん以外の3名の女子は、 下山して行った。男子では、遅れて到着したK氏の調子が悪い。眠らせないように日本人ガイドK氏が声を掛け続けている。しっかり返事が聞こえるようになったので安心した。このキャンプ4からは初めてマナスル本峰がピナクルから稜線が続いて、その姿を見ことができるようになった。  

 

  いよいよ、6日登頂する日。3時発だが、私は用足しで出遅れる。そのため、ネパールスタッフ、カイラ氏が私のサポート員となり一緒に暗い中歩く。先行する他の隊員のヘッドランプを頼り、前へ足を動かす。平坦な地形を進み、急斜面を喘ぎながら登る。稜線に出れば楽になるかと思うと、そこには次の稜線が見えてくる。やがて、山並みの夜空に暁色が出現しだす。影マナスル、日の出、大地に太陽が輝と、その光線を浴びたくなる。その温もりで、今の呼吸で苦しむ自分から少しは、解放されるのではないかと期待。やがて待望の太陽光線の下に。何か活力を得た気がする。  

  雪面を登り続け、マナスルを象徴していたピナクルと同じ高さにたどり着く。その左手に長い雪面が山頂部へと続いていた。ここまで来ると、20歩歩いて呼吸を激しくする。急な深呼吸すると肺が痛くなる。気力を振り絞って、一歩一歩足を動かす。動かす動機に、家族、山に消えた山仲間、山の会の仲間、まだ交流が続き私を支えてくれている教え子たちなどの名前を叫びながら足を動かす。標高差5000mのあと200mぐらい残すだけ。ここまで来て、自分に負ける分けにはいかない。しかし、20歩以上は動かせない。すると、上から先行していたK氏、W氏、ネパールスタッフの3人が下りてきた。「工藤さん、もう登頂できるから、無理せず慎重に 下りてくるように」と声を掛けられる。そうか、何としても一歩一歩前への気持ちになる。  

 急な雪面を登り切ると、左への水平の踏み跡がある地形となった。いよいよ尖った稜線が一つあるだけ。そこを行き、急な斜め上への雪面を登り切ると、山頂を示す5色の旗を巻きつけた雪の塊の前であった。時は、10時15分である。ガイドのカイラ氏と記念写真を撮って、下山を始めた。  

 

  ありがとう。この年まで趣味の登山を許してくれた家族、こんな体力を維持させてくれた職場、志なかばで山や交通の事故で私より先だってしまった山仲間、そして、出発前日4日、恒例の富士地区の登山部が富士山清掃をする日、荒天で2校の登山部が延期となり、私が一人で29年目の恒例の清掃活動をすることを知り、雨の中清掃活動に付き合ってくれた宮西登山部OB、K君。そんな人々に恵まれた私。退職後の憧れ実現ができたのも、 よき人々に恵まれていることに、感謝、感謝。